日本マーク・トウェイン協会 第26回総会・大会
開催日:2022年10月29日(土)
会場:Zoomミーティング(オンライン開催)
※大会参加の為のZoomミーティング情報は、Newsletterで会員の皆様にお知らせいたします。
※会員以外の方で、研究発表ならびにシンポジウムの視聴をご希望される場合には、お手数ですが事務局まで事前にご連絡ください。連絡先はこちらをご参照ください。
<プログラム>
13:00-13:30 総会
13:30-13:35 会長挨拶
13:35-14:20 研究発表
14:20-14:35 休憩
14:35-17:05 シンポジウム
17:05-17:10 副会長挨拶
研究発表 (13:35-14:20)
それは社会風刺か、それともメロドラマか――Ah Sinの上演当時の受容について
瀬戸貴裕(オクラホマ大学) 司会:生駒久美
本発表では、Mark TwainとBret Harteによる共作であり、批評家らによって対立するような評価が与えられているAh Sinという舞台劇が、いかに上演当時に受容されたのかを論じる。この検証を行う際に本発表が重視するのが、上演時のコンテクストと、劇が具体的にはどのようなジャンルのものとして受け入れられていたかを知ることである。ニューヨーク公演が有名なメロドラマ作家であったAugustin Dalyの劇場で行われたことや、当時のレビューにもメロドラマとの類似を指摘するものがあることから、本作品が一種のメロドラマとして受け入れられた可能性が高いことを本発表では指摘する。メロドラマというジャンルが一般的にはどのような性質のものなのかを概説した上で、Ah Sinをメロドラマとして見た時、そのプロットやキャラクターはどのようなものとして当時の観客に捉えられたのかを、ニューヨーク公演を例にとりながら推察する。
シンポジウム (14:35-17:05)

マーク・トウェイン文学の草稿研究をめぐって
夜空の星のように数多ある作家研究の中で、マーク・トウェイン研究が甚だしく恵まれている点がある。その草稿管理が抜群に行き届いていることだ。よく知られているとおり、娘のクララの寄贈から始まったカルフォルニア大学バークレー校のマーク・トウェイン・プロジェクトの草稿収集・管理は、同世代の作家研究の中でも、おそらくトップクラスの質を誇るものであり、日本からも多くの研究者達が来訪している。死後に原稿や書簡の多くが散逸してしまったり、正確な没年すら不明となってしまったアンブローズ・ビアスのように、伝記研究に恵まれない作家達がいる中、二十世紀初頭に亡くなった作家としては、トウェイン文学は相当に資料保存がなされていると言い切れるだろう。
しかしながらだからこそ、これからはその「草稿研究」の意味付けが重要になるのではないだろうか。草稿管理にはそれなりの維持費がかかり、それらへの常勤研究者を置くともなれば、さらに経費がかかる。「文学研究」を行うことにエキスキューズが必要である時代に生きているのであるとすると、「草稿研究」はなおのことそうであろう。登壇者や聴講者と共に、この問題を考えてみたい。
草稿研究と「社会的テクスト生成論」の可能性――日本近代文学研究の場から
講師:島村 輝 (フェリス女学院大学)
近代文学における本文のプライオリティーは古典文学の場合とは異なり、自筆原稿や書き損じの反古、草稿ノートなどよりも、筆者や編集者の手入れによって流通に乗せられた、刊本のほうにほぼ独占的に置かれてきたといえるだろう。しかし近年「生成論的研究」と呼ばれる手法が脚光をあびるようになり、「近代文学」という枠組みの中で問題化されることの少なかった、テクストの生成過程と、そこから生じる異本の存在について、あらためて興味と関心の対象となって浮かび上がるような動きが生じてきた。
本発表では、日本近代文学研究の場でこのようなテクストの生成過程が最も先駆的、かつ端的に問題になった『校本宮沢賢治全集』(1973‐77、筑摩書房)および『新・校本宮沢賢治全集』(2009年完結、筑摩書房)、また発表者が直接中心となって刊行にいたった『小林多喜二草稿ノート・自筆原稿 データベース』(2011、雄松堂)を中心に、その意義と可能性について語る予定である。
Twainの“literary father”、 Joe Goodman――Twain-Goodman letters の草稿研究から
講師:有馬 容子(敬愛大学)
Twainがサンフランシスコで活躍していた時代に執筆した最も優れた記事の大部分がTerritorial Enterprise 紙に掲載されたものであったことは誰もが認めることである。その編集長がJoseph T. Goodmanであった。彼は文字通りTwainの生涯の友であった。二人の間で交わされた書簡はTwainが没する直前まで続く。その断片はAutobiographyの注やA.B.Paine編集のMark Twain’s Lettersなどで読むことができるが、テキスト化されていないものをも含めその全てを読み通すことはカリフォルニア大学Mark Twain Papers and Projectでの調査ではじめて可能となる。
そこに浮かび上がってくるのはTwainの才能を正確に理解し正しい方向へ導く、Twain自身の言葉を借りて表現すれば、“literary father”ともいえる真の友人の姿である。今回の発表ではこのような読み方をすることにより、何が明らかになり、今後の作品の読み方にどのような変化をもたらす可能性があるのかを示唆したい。
「ホワイトウォッシュ」される父——マーク・トウェインとオリヴィア・ラングドンの自伝的虚像とFollowing the Equator草稿上の対話をめぐって
講師:杉村 篤志(山梨英和大学)
Mark Twain: The Fate of Humor (1966)においてJames M. Coxは、Olivia (Livy) Langdonを Mark Twainの“muse as censor”とみなし、とりわけ、Twainの商業的成功に果たした妻Oliviaの役割の大きさを評価している。また、そのうえでCoxは、校閲者OliviaがSam Clemensに及ぼした心理的影響の深さを吟味して、妻の承認を希求するClemensの “the rigorous internal censorship” の複雑なありようを分析している。
Coxの古典的著作を再訪したうえで、本報告では主に、①The Adventures of Tom Sawyer (1876)草稿における——OliviaによるものとHamlin Hillが推測した——2点の鉛筆書きこみ、およびClemensによるInjun JoeのWidow Douglasに対する「復讐」計画の微修正、②Following the Equator(1897)草稿におけるJohn Marshall Clemensによる奴隷少年の「鞭打ち」場面をめぐるOliviaの改稿案とそれに対するClemensの応答、③未発表作品 “Indiantown” (c. 1899)草稿における “Sam” の名の抹消と「妻による不本意な校閲」の主題について検討する。これらの草稿研究を通して、部分的にではあるが、Mark Twain/Sam Clemensの自伝的虚構の生成過程を、妻Oliviaとの関わりに焦点をあてて再吟味する新たな可能性を提示できればと思う。
新資料は発見できるか?
司会・講師:辻 和彦(近畿大学)
2017年から18年にかけて、私はニューヨーク市立大学クイーンズ校の客員研究員として、ニューヨーク・シティに滞在し、当地の幾つかのライブラリを巡った。豪華絢爛たる様々な資料を維持していくことや、それらを管理することが、いかに大変で、いかに難しいことか、関係者のそうした労苦の一端を少しだけ目撃することができた。
東海岸においてもトウェインの資料は点在し、中でもニューヨークはトウェインが何度か居住した街であることもあり、彼の書簡などもライブラリの幾つかに眠っている。必ずしもマーク・トウェイン・プロジェクトのように行き届いた管理がなされていないだけに、かえって思わぬ発見に遭遇できる機会も少なくない。
作家の草稿研究への世の期待には、やはり作家像を変えてしまうような大きな発見の可能性が潜んでいるように思われる。もちろんそのような発見はまず簡単にはなされるものではないが、少なくとも小さな発見のようなものには、今後どれくらい遭遇できる機会があるのだろうか。本発表ではそうした可能性を模索する次第である。