開催日:2024年10月26日(土)
開催場所:同志社大学今出川キャンパス良心館、RY306

会場へのアクセスはこちらを参照してください。 ↓

https://www.doshisha.ac.jp/information/imadegawa/imadegawa_map/index.html

*総会のご出欠につきまして、メールでお知らせしましたGoogle フォーム にて10月12日(土)までにご回答ください。
*会場外の飲食店での懇親会開催を予定しております。参加人数を把握するため、メールでお知らせしましたGoogle フォーム にて9月30日(月)までにご出欠をお知らせください。参加される方は、現地にて会費をいただきます。

 

ワークショップ13:35-14:55

教育現場で、マーク・トウェインを教えることはどのように可能か?

 近年、英米文学研究者が文学作品を用いて、大学で授業をすることに難しさを感じることも多い。専門学部で、英米文学に関する授業をする場合はさほど問題はなかろうと推測するが、異文化理解的視点を以前より盛り込むことが求められている今、この類の授業でもテキストの扱い方に思案することがある。教養の外国語授業においては、教員側もどのような授業をすべきか、頭をさらに悩ます。英語教授の場面では、かつての訳読中心主義、つまり英語を教える場合には、訳読すべきである、いやするしかなかろう、他にどのような方法があるのか?という実際的方法論に影響されてきた。文学作品を訳読で教授した場合、物語が長い上に単語も難しく、学生側からはおもしろくないと批判があがり、英語教育の同僚教員からは、そのようなやり方で、英語の実践的能力があがるのかという意見が出されてきた。分量の多い物語を扱った授業で、メインキャラクターが出てくる前に授業が終わったというような笑い話にも似たことも耳にしたことがある。もっとも、訳読中心で文学作品を扱うやり方は、いずれのタイプの授業においても、減少したと考えるが。

 文学作品は実は英語学習の場面において、宝庫である。考え抜かれた思想や英知が、選び抜かれた言葉遣いで表現されている。コミュニケーションの素材となるテーマも満載、会話のスタイルも実に参考になる。そして何より、学習者は、アメリカやイギリス、さらには世界の社会状況、思想、宗教、哲学などを、文学作品から直接吸収することができるのである。

 我々アメリカ文学研究者が大学で教える際の立ち位置は、アメリカ文学を教授する者であると同時に、英語を教授する者であることが多い。大学以外の教育機関で教える場合もある。本ワークショップは、「教育現場で、マーク・トウェインを教えることはどのように可能か?」という問題に取り組む。「教養・外国語科目として用いるトウェイン」「専門科目として用いるトウェイン」「大学以外で扱うトウェイン」、いずれの視点もあろう。上述した英語教授の歴史的背景も含めて、登壇者から情報提供を行い、フロアと共に、活発な議論を引き起こしたいと目論んでいる。

 

トウェインを用いて教えるとはいかなることか?

     司会・講師:江頭理江 (福岡教育大学)

 2014年9月に当時の英語教育の在り方に関する有識者会議によって出された「今後の英語教育の改善・充実方策について 報告~グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言~」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/102/houkoku/attach/1352464.htm)は、その後の英語教育の道筋を大きく変えることとなった。コミュニケーション能力の更なる向上を目指す英語教授が、一層強く求められることになったのである。

 英語を教える、アメリカ文学を教える、マーク・トウェインを教える、これらは、トウェイン研究者である我々が、英語教授に携わる場合に取り得る立ち位置であろう。英語実践力の向上という命題が、英語に関わる教育場面の最上位に掲げられていると見える最近の事情の中で、「文学を学んでいたのでは、英語の力は伸びない」という批判に対して、「文学やトウェインを学ぶと、英語の力が伸びる」という反論に、皆様と共に果敢に取り組みたいと考えている。

 

トウェインを通して学習者は何を学ぶのか?

          講師:関戸冬彦 (白鷗大学)

 みなさまはおそらく、ご自身の授業でトウェインを何らかの形で用いていらっしゃることと思います。それはトウェインの伝記的な部分、いわば歴史、かもしれませんし、個別の作品かもしれません。また、どの程度どこまで深く扱うのかといった内容的なことに関してはその該当授業が専門ゼミなのか、あるいは一般的な文学の概論的講義なのか、はたまた英語科目の1コマなのかによっても大きく異なることでしょう。いずれであったとしてもその瞬間、学習者にとってトウェインとは教材のひとつになっているわけです。そこで、

「トウェインを通して私のクラスの学習者たちは(  )を学ぶ」

の( )内に何が入るのかを考えてみていただけますでしょうか?英語、歴史、文化、人生などなど複数あってもかまいませんし、ひとつだけでもかまいません。もちろん、唯一絶対の正解があるわけでもありませんし、それを求めているわけでもありません。わたし自身にはわたしなりのコトバがありますが、それは当日のお楽しみということで。ワークショップですのでみなさま同士の学びや気づきが多くある時間になれば幸いです。

 

トウェインを教えるということ――アメリカの場合、日本の場合

              講師: 石原剛(東京大学)

 これまで20年以上に亘ってエルマイラの国際マーク・トウェイン学会で発表を続けてきたが、2022年の前回大会での裏のテーマは間違いなく「教育」であった。そこでの経験に刺激を受けて、昨年刊行した英文号の最新号では特集テーマを「Mark Twain and Pedagogy」とし、恩師でもあるフィシュキン教授とライアン教授に寄稿をお願いし、正反対の立場からアメリカの大学の教育現場におけるトウェインの扱いについて論じて頂いた。本ワークショップでは、Anti-Racistとしてのトウェインを前面に押し出すフィシュキン教授の立場と、それに異議を唱えるライアン教授の議論を皮切りとして、人種をめぐるアメリカの教育現場や教科書でのキャノン論争、そして私も携わる日本の教育現場におけるキャノン崇拝、英語崇拝、原文崇拝、そして翻訳を授業で使用すべきか否か、といった問題について議論していきたい。ご自身の教室での経験も交えてフロアとの活発なやり取りもできたらと考えている。

 

シンポジウム(15:05~17:35)

マーク・トウェインとフォークロア

 フォークロアとはそもそも何であるのか。実は、アメリカ文学研究において、一貫した定義はない。この言葉がアメリカに輸入され、地元の民俗学研究に活用されたのは、20世紀に入ってからである。その後に台頭した文化人類学は、民俗学研究とは異なる定義をもってフォークロアを扱うこととなる。こうした分野間の齟齬に加え、様々な民族の民話・伝承・迷信が混ざり合う新移民国家アメリカでは、フォークロアという言葉が、一般的に、捉えどころのない曖昧な概念となってしまった。この曖昧さが原因だと筆者は考えているが、Bernard DeVotoが指摘するように、フォークロアは、その意義にも関わらず、トウェイン研究において看過されてきたのである。しかし未踏であるだけに、フォークロアがもたらす情報と指摘は膨大であり、トウェイン研究に新たな展望をもたらすはずだ。

 

トウェインのジャーナリスト時代と死者にまつわるフォークロア

講師: 大久保良子 (防衛大学校)

 アメリカにおけるフォークロア研究は、1930年代から1940年代初頭にかけてハーバード大学で教鞭をとったアメリカニストの尽力により、アメリカ文学・文化研究に民衆文化を含むようになったことで発展する。その一人であるBernard DeVoto以降、南西部のユーモアや風習を中心にトウェインのフォークロア研究はにわかに盛んになった。マルチ・カルチュアリズムの時代となりフォークロアの射程が広がったいま、たとえば非植民地の文化、風習、都市の民衆文化、民間信仰など、トウェインの記録したフォークロアもより幅広い射程で見直される余地があろう。

  本発表では、フォークロアの宝庫といえるジャーナリスト時代の資料に着目する。特派員として訪れたサンドイッチ諸島からの通信文は、伝統的な王族の葬儀等を詳細に記録した貴重な民俗学的資料である一方で、亡き王女の貞操に関する噂を信じていたトウェインの揶揄も「野蛮な」踊り等に重ねて仄めかされる。スピリチュアリズムの体験記事では、不可思議なものを身近でユーモラスな存在として捉え直す文学的技量や、民間信仰を批判するキリスト教に疑問を投げかけるジャーナリスティックな姿勢を確認したい。

 

呪術師Jの冒険:呪術における未知の領域の重要性

講師:近藤英俊(関西外国語大学)

  一見近代化の進むアフリカにあって、呪術は相変わらず日常的な実践である。効果については失望することの多い呪術を、人々はなぜ利用し続けるのだろうか。この呪術の本質に関わる古くて新しい問題について、本発表はナイジェリアの新興都市カドゥナ在住の呪術師Jの事例をもとに、呪術が不可知性に希望を託す冒険の一形態である点を重視する。Jにとって未来は予期せぬことが起こりうる未知の領域である。呪術の成否はやってみなければわからない。繰り返し呪術が失敗しても、新たな呪術には常に万が一の成功の可能性がある。この賭博的希望は、Jが予期せぬことを契機に人生の航路をしばしば変更してきた事実に裏打ちされている。Jにかぎらず、成功を夢見てカドゥナに移り住んだ人々の多くは、当てにならない様々な情報、仕事、信仰、商品そして人々と出会い、思いもよらぬ幸不幸を経験する。そこはルーレットのような人生を生きる冒険者たちの世界なのだ。

 

トウェインとチャイルド・バラッド

  講師:佐久間みかよ(学習院女子大学) 

 マーク・トウェインは1888年、エドワード・イーグルトン、ジョエル・チャンドラー・ハリスと共にアメリカン・フォークロア・ソサエティの会員となる。一方、ハーバード大学の教授フランシス・スコット・チャイルドが伝承されたバラッドを集めてThe English and Scottish Popular Ballads(1882-1898)を出版し、チャイルド・バラッドと呼ばれ親しまれた。アメリカン・フォークロアは西部的要素が強いのに対し、チャイルド・バラッドはそのタイトルが示すようにトランスナショナルな要素がある。トウェインのフォークロア的逸話にはバラッドの影響もあるのではないだろうか。トウェインのフォークロア的逸話にその痕跡をさぐり、トウェインのフォークロアの世界がコンポジット的なものではなかったか探ってみたい。

 

民話伝承から発展したAdventures of Huckleberry Finn 

   司会・講師: 山本祐子(関西外国語大学短期大学部)

 地方文学とリアリズム文学を中心としたアメリカ文学は、部分的にではあるが、民話伝承を起源として発展していたと本論では考えている。そして、その典型例が、Adventures of Huckleberry Finnであったと論じたい。確かに黒人奴隷Jimの占いやHuckとTomの迷信などのように、幾つもの民話伝承を取り込んで物語は構成されており、その詳細も先行研究において指摘されてきた。だが、それは、ほんの一部を解明しただけだったのだ。民俗学・文化人類学の資料とすり合わせると、文学研究では把握しきれなかった民話伝承が、作品の全体にわたって散りばめられ、根幹を成していたことが分かる。民話とは、アメリカ人が受け継いできた伝統であり、共有の記憶である。これをもとにHuck Finnを読み返すとき、欠けていたピースが埋まる。なぜ物語はvernacularで語られなければならなかったのか、Huckは悪霊を通して何を見ていたのか、なぜTom Sawyerは嘘つきなのか、多くの疑問を解き明かしていきたい。